藤原百川公の墓

藤原百川は、奈良時代末期の上級官人で、称徳天皇が僧侶の弓削道鏡を皇位につけようとした宇佐八幡宮神託事件の折、勅使の和気清麻呂に働きかけてその企てを防ぎ、宝亀元(770)年に称徳天皇が没すると道鏡を追放して光仁天皇を擁立した。

また、藤原百川は、山部親王(後の桓武天皇)を皇太子に立てて、長岡京及び平安京への遷都への道を開いた人物で、宝亀10(779)年7月に参議中衛大将兼式部卿従三位の地位で没した。

『日本後紀』延暦16(797)年2月条には、相楽郡に藤原百川の墓地として2町6反を与えたとある。その後、墓地の所在は分からなくなったようで、明治27(1894)年に至って、伝承や江戸時代の文献から藤原百川の墳墓の考証が行われ、当地を百川の墓として認定した。また、明治28(1895)年の平安奠都(てんと)一千一百年奉祝祭の際に、正式に比定された。

ただし、現在では信用のおける文献を確認できず、藤原百川の墓を確定するに至っていない。

所在地

木津川市相楽城西91