史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)しせきくにきゅうせき やましろこくぶんじあと

木津川市の東部、丘陵地に開けた加茂盆地を中心とする地域は、北から瓶原、加茂、当尾と呼ばれ、三つの地域で加茂町を形成していました。町名「加茂」は、古代の神事を司るカモ氏に由来するものと云われます。
この盆地には、奈良時代の和銅元年(708)以来、天皇が行幸した岡田離宮や瓶原離宮の他、古代の貨幣「和同開珎」を造る鋳銭司も営まれました。和銅3年(710)に平城京から東国への官道が整備され、加茂盆地に岡田駅が設置されるなど、水陸交通の要衝として登場します。
この盆地に天平12年(740)、聖武天皇が都を遷してきます。恭仁京遷都です。盆地の中に壮大な都市計画が行われ、建設の槌音が絶えることなく盆地に響いていました。
恭仁京はわずか5年ほどの短命な都でしたが、廃都後山城国分寺が跡地に営まれ、現在も七重塔跡礎石が往時をしのばせています。盆地を取り巻く美しい山並みと盆地を東西に横切るように流れる大河木津川。この山紫水明の織りなす景観は、旧都の記憶とも相まって、多くの歌人によって詠まれてきました。

 

 史跡恭仁宮跡(しせきくにきゅうせき)

天平12年(740)12月、突如聖武天皇が恭仁京遷都を宣言、東国行幸の後平城京に戻らず、瓶原に造営されていた恭仁宮に入りました。宮殿の造営は急ピッチで行われ,平城宮より政治の中心となる大極殿や朝堂院、周囲を取り巻く回廊などが移築されました。今では珍しくなりました木造校舎の恭仁小学校のすぐ北側にある基壇が大極殿跡です。壇上には当時の礎石が点在し、壮大な建築物であったことを伝えています。この間南山城の加茂盆地に、都の中心となる恭仁宮が造営され、木津・加茂・山城にまたがる壮大な都が計画されました。都の造営は5年ほどで終わり、宮殿の跡には山城国分寺が営まれました。
恭仁宮の調査は,昭和48年から始まり、30年ほどを費やして宮殿の範囲が確定しましたが、都が難波宮に移ってから、恭仁宮の大極殿が山城国分寺に施入されたことから、跡地には長らく山城国分寺が営まれました。そのため全国でもまれな二つの重要遺跡が複合する事となりました。史跡の指定は、当初山城国分寺として行われましたが、近年南北約750m、東西約560mの南北に長い宮域が確定したことから、平成19年2月6日史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)と名称が変わり、史跡の範囲も拡大しました。
 

史跡恭仁宮跡 内裏地区

 

昭和49年度から発掘調査を開始した恭仁宮跡は、平成8年度には宮の範囲(宮の周りを囲む大垣跡を確認)が東西約560m、南北約750mであることがわかりました。
大極殿の北側は、天皇が日常生活を送る「内裏」と考えられているところです。平城宮では掘立柱塀で仕切られた一つの区画でしたが、恭仁宮では東西に区画を分けていることがわかりました。現在はそれらを「内裏東地区」「内裏西地区」と名付け、総称して「内裏地区」と呼んでいます。
「内裏西地区」は掘立柱塀で四方を囲み、東西約97.9m、南北約127.4mの長方形です。中央に掘立柱建物(SB5303)が確認されています。「内裏東地区」の塀は南と東西の3辺が土を突き固めて盛り上げた築地塀、北が西地区と同様掘立柱塀で囲まれており、東西約109.3m、南北約138.9mの長方形です。こちらには南北に並ぶ2棟の東西棟庇付き建物(SB5501・SB5507)が確認されています。
東西内裏の規模と構造の違い(築地と掘立柱塀では築地の方が堅固な作り)は明らかで、これは他に例を見ない配置であります。

恭仁宮跡内裏地区説明板 英語

 

恭仁宮跡内裏地区説明板 中国語

 

恭仁宮跡内裏地区説明板 ベトナム語

山城国分寺跡

恭仁京に遷都した翌年、諸国に国分寺を建立する詔が発せられました。山城国では着工時期が定かではありませんが、恭仁京が廃都となってまもなく、天平18年(746)に恭仁宮大極殿が山城国分寺に施入され、金堂として使用されました。さらに七重塔や境内鎭守社(旧御霊神社)などが整えられました。現在も大極殿跡に隣接して残る巨大な礎石群は国分寺の塔跡です。

山城国分寺塔跡説明板 英語

山城国分寺塔跡説明板 中国語     

 山城国分寺塔跡説明板 ベトナム語

所在地

木津川市加茂町例幣(れいへい)