市域の東南部、奈良県との県境付近は、古くから小田原と呼ばれ、平安時代の後期には多くの修行僧が集まり、丘陵地の谷や峯に庵を営み仏教信仰にいそしんでいました。
小田原は大きく東西に二分され、東は随願寺(廃寺)を中心に子院や庵が集まり、西では浄瑠璃寺が中心で、西小田原ともいいます。寺の縁起には、奈良時代に聖武天皇が僧行基に命じて建立させたのがはじまりと伝えているのですが、浄瑠璃寺の記録「浄瑠璃寺流記事」(重要文化財)の記すところは、永承二年(1047)に、当麻出身の僧義明が薬師如来を安置して開基したことを伝えています。浄瑠璃寺の名は、東方浄瑠璃浄土の主、薬師瑠璃光如来に因んだものです。その後、平安時代末期になって九体阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂を建立し、庭園を整備して今日の姿になりました。

 

浄瑠璃寺庭園(史跡・特別名勝)

浄瑠璃寺の庭園は、極楽浄土を表現しています。梵字の阿字をかたどったと云われる宝池を中心に配し、西に本堂・九体阿弥陀仏を安置し、東に三重塔・薬師如来像を祀るという当初のままの形を残している浄土庭園は少なく、周囲の自然環境と共に四季折々の美しさを見せるところから国の特別名勝に指定されています。

 

九体阿弥陀仏と本堂(阿弥陀堂)(国宝)

平安時代末期の世情不安の中、極楽浄土を夢見る浄土信仰がたかまりをみせると、浄瑠璃寺の境内に横長の阿弥陀堂(国宝)が建立され、九体阿弥陀如来像(国宝)が安置されました。お堂の扉は、各阿弥陀像に対応するように配置され、後世檜皮葺きの屋根を瓦葺きに変更した時点で中央に向拝が設置されたようです。平安時代には、京都を中心にして30か所ほど九体阿弥陀堂が造られたと云われますが、現存しているのは浄瑠璃寺だけです。
阿弥陀像は、中央に坐像の中尊を配置し、両脇に四躯ずつ等身大の阿弥陀像を配置しています。

 

四天王立像 四躯(国宝)

平安時代に制作された四天王像としては屈指の名作といわれています。本来は堂内の四隅を護る役割をもって安置されていましたが、現在は広目天像が東京国立博物館へ、多聞天像が京都国立博物館へ出陳されています。
堂内には、持国天・増長天の二天が、コミカルな表情の邪鬼を踏みつけてにらみをきかせています。持国天像の肉身部は赤色に塗られ、頭には花飾りの鉢巻をしています。腹部には獅?(しがみ)が付けられています。増長天像も持国天像と同じように身体は赤色に塗られ、右手には「三鈷杵(さんこしょ)」、左手には「戟(げき)」を持っています。
 

 

三重塔(国宝)

鎌倉時代が目前にせまっていた頃、新たに阿字池を造り浄土庭園が整備されました。ここに戦火に見舞われた京都から、三重塔(国宝)が移築されて、庭園の東に配され、東の薬師、西の阿弥陀という浄土庭園の形が完成しました。塔の初層内陣には、創建時の本尊といわれる木造薬師如来坐像(重文)が安置され、内陣の壁面には真言八祖・十六羅漢を描いた壁画が残され、天井や柱にも極彩色が施されていた様子がわかります。
 

浄瑠璃寺薬師如来坐像(重要文化財)

浄瑠璃寺は、その名の通り薬師如来像(重要文化財)を本尊とする小さな庵から始まりましたが、後には阿弥陀堂(国宝)が建立され、阿弥陀如来の浄土をあらわす寺院に変貌していきました。現在では薬師如来像は三重塔に安置されています。

浄瑠璃寺吉祥天女像(重要文化財)

記録によれば、建暦2年(1212)本堂に安置と記されていて、この頃造立されたと考えられています。彩色が良く残り、優雅でどこかエキゾチックな雰囲気を漂わせています。美と幸福の女神として知られています。正月と春秋に公開。

浄瑠璃寺の春

かつて堀辰雄の随筆「浄瑠璃寺の春」に描かれたのどかな山里の古寺は、半世紀を経た今日、年間を通じて訪れる人も多く、特に春秋のシーズンともなるとさながら当尾銀座の様相をみせています。

 

所在地

木津川市加茂町西小(にしお)

アクセス

JR加茂駅から、コミュニティバス「当尾線」をご利用ください。