学研都市線は、正式には「片町線」といいます。平成9年3月にJR東西線が開業したことに伴い、「片町駅」は廃止になったのですが、今でも「片町線」が本当の名称です。
その歴史は古く、浪速鉄道が片町-四条畷間を開通させた明治28年まで遡ります。四条畷-木津間は城河鉄道が敷設免許を得ていましたが、両社ともまもなく本社を四日市におく関西鉄道に買収されました。
関西鉄道は明治31年中に四条畷-長尾、長尾-新木津、新木津-加茂間を相次いで開通させるとともに、放出-網島間を開通させることにより、網島-名古屋間172.2kmが全通しました。
その後、明治39年に鉄道国有法が成立し、翌年に関西鉄道も国有化されてしまいました。現在までに、全線電化・松井山手-京橋間複線化が完了しています。

詳しくは、歴史及び年表のページをご覧ください。

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線区の概要

線区名

片町線

区間

木津駅から京橋駅まで

キロ程

44.8キロメートル

複線化キロ数

27.8キロメートル

電化キロ数

44.8キロメートル

駅数

24

走行車両

207系
最高速度110km/h(松井山手駅から京橋駅間)・95km/h(木津駅から松井山手駅間)

最速所要時間

51分

学研都市線(片町線)の歴史

城河鉄道

四条畷-木津間については、城河鉄道が免許を得ていましたが、開通する間もなく、関西鉄道に吸収されてしまいました(後述)
城河鉄道は、明治26(1893)年8月に田辺村において創立発起人会を開き、浪速鉄道の片町-四条畷間の路線に接続して、四条畷-木津間に軽便鉄道を敷設することを決議し、逓信大臣黒田清隆宛に「城河鉄道株式会社創設願」を提出しました。
翌明治27年9月に仮免許状が下付され、明治28年8月26日に本社を田辺村におく資本金50(80?)万円の株式会社として発足し、明治29年5月、鉄道建設の免許状を得ました。同年には用地への立入測量の認可を大阪府から受けるなど、地域の期待を担った城河鉄道は順調に進むかに見えましたが、翌年には工事途中で関西鉄道に吸収合併されました。
「田辺町近代誌」によれば、城河鉄道は浪速鉄道よりも後に買収されたとあります。これは明治30年2月19日付けで城河鉄道社長が京都府知事宛に出したという田辺村字興戸地内の「防賀川隧道工事設計願書」を根拠にしているようです。
しかし、「枚方市史」その他の資料には城河鉄道が先であるとの記述があり、このあたりは不明です。「けいはんな風土記」には、明治29年7月に城河鉄道の全事業を譲り渡す契約をし、関西鉄道が当該区間を自社の延長線とする申請を出したとあります。鉄道省の積極的な支援を受け、明治30年1月には免許状が下付され、これにより城河鉄道は解散したようです。

関西鉄道

関西鉄道は本社を四日市におき、明治21(1888)年3月1日に設立が許可され、同年12月15日に開業しました。鉄道敷設は順調に進み、明治23年12月に四日市-草津間、明治24年11月に亀山-津間、明治28年に桑名-四日市間、同年11月に名古屋-桑名間、明治30年1月に柘植-伊賀上野間をそれぞれ開業させました。この間に大阪と名古屋間を一会社線とするため、関西鉄道は明治30年中に浪速鉄道及び城河鉄道を吸収合併し、同年11月に放出-網島間、伊賀上野-加茂間を開通させました。
この後、明治31年4月12日に四条畷-長尾間(13.3km)が開通し、次いで6月4日には長尾-新木津間(18.2km)が開通しました。これに先立ち5月28日には試運転が行われ、沿線の各駅で祝宴が催されたようです。新木津-木津間(583.4m)が開通したのは9月16日で、ここで現在の学研都市線の線路が全線開通となりました。11月18日には新木津-加茂間、網島-放出(30年?)を開通させ、こうして網島-名古屋間172.2kmが全通することとなりました。
開業当初の営業本数は、1日上り下り各々5本でした。始発は名古屋が4時35分、新木津9時41分、網島11時26分、名古屋-網島間の所要時間は6時間51分でした。
このままいけば、片町線が関西本線となったかもしれませんが、明治33年に大阪鉄道を買収し奈良-湊町間を獲得するとともに加茂-奈良間を開通させ、こちらが幹線となってしまいました。
その後、明治39年に鉄道国有法が成立し、翌年には関西鉄道も国有化されてしまいました。

片町線

国有(鉄道省、国鉄設立は昭和24年)となった片町線(いろいろと呼称・路線は変わったようですが)が、近代化されるのは昭和に入ってからのことです。
電化は、昭和7(1932)年に片町-四条畷間(関西では初めてらしいです。)、昭和25年に四条畷―長尾間が、平成元(1989)年に長尾-木津間が完成しました。複線化は、片町-鴫野間が昭和30年に完成し、既に鴫野-放出間が城東貨物線が平行していて複線であったため、これで片町-放出間が複線になったことになります。昭和44年中に放出-四条畷間が順次複線化され、昭和54年に四条畷-長尾間が複線化されました。さらに国鉄民営化後にやっと長尾-松井山手間が複線化(平成元年)となりました。
「学研都市線」という愛称を使用しだしたのは昭和63年からのことです。
207系車両の投入、JR東西線との直通運転、区間快速の導入、また平成14年3月には輸送力増強・高速化事業及び京田辺駅駅舎橋上化事業が完成し、京田辺駅までが複線化と同様の機能を発揮するなど、片町線の利便性は格段に向上してきています。しかし、あいかわらず、松井山手-木津間は単線のままであり、一日も早い複線化が期待されます。